大阪くそったれリカバリーストーリー ~私の新大阪駅での感涙を振り返りつつ~

藤井哲也

時は、2016年5月のゴールデンウィークの休暇に関西神戸、大阪方面へ私用で出かけた帰り、父方の親戚の叔母に約40年ぶりの再会の前に立ち寄った駅の公衆トイレでの私の排便中にこみ上げて来た私の病状の最悪時から今の今に至ったリカバリーを振り返りながら思いに想った先にひとり泪したエピソードである!!
さて、その珍事とは!?

それでは、早速本題に突入しよう。
大阪の叔母とは40年ぶりの再会、その40年前とはまだ私が二十歳を迎える前、病状悪化の中当時の実家に(両親と同居)引きこもっている中、大阪の叔母が小学校の教員をしていて日教組の全国大会に出るため上京、宿泊を父が実家を提供しその中私との再会(その前に会ったのがまだ私が小学生の頃である)があり、その際叔母が私に「また、よければ内へ(大阪の叔母宅)いらっしゃい。」と声をかけてくれたのだ。

ただ、その時点私は精神疾患病状最悪のどん底にはまってるぶっつぶれ状態中である。(因みに叔母には精神の病にかかってること、世間体の中打ち明けてはなかった)と、いう訳で私からは叔母に「なるべく早く行きたいな。その時は連絡するね!」と嘯いた発言を返した。その時思ったことは、叔母に嘘を言ってしまったことの後ろめたい気持ちと自分の抱えている病状の実態に対するどうしようもない悔しさが切実に募るのであった。

私は、その時点での自分の先は、全く暗闇でもう自分は家から絶対一歩も出ないで人生を終わらせるかもと考えていた!!だからこそ、叔母に対しての発言に深い過ちを覚えていたのだ。
そして、時は過ぎ40年後の再会と合いなったのである。そして関西立ち寄りの中、時間があったので叔母に急遽連絡、再会の運びに至った。まだ、時間があったのでその前に用便を済ませようと思い、駅の公衆トイレの便座に腰かけ、クソをしながら物思いに更けった先に溢れんばかり涙、泪、ナミダ…!!
今、この手記を書きながら想うことは,人生なんていつ、どこで何がどうあるかなんて誰にもわからないということ!!だからこそ、先のことはその先の天運に任せ、先ずは、一歩一歩地道に焦らず歩んでいくのが得策だと想いを廻らせ、今まで無事に生きてこれたことにただただ感謝の他にはない!!

最後に皆さんも、人生の歩みの中これからも紆余曲折ありかと思う。それぞれの人生道を着実に踏破して行けることを切に願い、祈り私のくそったれリカバリーストーリーの公言を終わりにしたい。

(追加事項:大阪市当局の皆様、横浜の福祉事業所のピアスタッフが勝手ながら大阪市の公共の場所をお借りして本来あるべき目的以外の行為(涙に暮れた)を遂行してしまったこと、あらためてお詫び申し上げます。)

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